大金星誕生物語

スタートは今から32年前、私が29歳の時に脱サラし、銀行から5000万円の融資を受け、あるファーストフードのフランチャイズに加盟したオーナー店長としての独立、それが経営者としての第一歩でした。

銀行返済が毎月50万円、家賃、仕入れ、人件費、諸々の経費を払うと残った金額が15万円、これが私の給料でした。1日の平均労働時間15~16時間、休みは年間2~3日、もう必死で働きました。そして10年が過ぎやっと返済が終わってみると私の年齢は40歳に届くまでになっていました。

世の中の厳しさ経営の難しさを思い知らされた今思うと大変貴重な10年間でした。そんな時たまたま牛角創業者である西山知義氏と出会い、その縁で千葉県浦安の地に記念すべきフランチャイズ1号店として牛角浦安店をオープンすることになったのです。
当時は牛角なんて海のものとも山のものともわからない焼き肉屋で、誰も加盟しようなんて思いません。しかしその1号店からわずか15~16年で国内店舗数600店以上、その他アメリカや東南アジアにも進出するような一大チェーンに発展しようとは、その時は露ほども思いませんでした。

この牛角浦安店が本部もびっくりするくらいの大繁盛店になったのです。
それに伴い会社もどんどん発展していき、50歳の時に10店舗経営するまでになっていました。そしていよいよ昔からの夢だった自社業態開発に乗り出していったのです。

しかし、やってみるとこれが散々だったのです。
最初はライスバーガーとホットドッグをメインにしたファーストフード店、その名も“ホットオニーズカフェ”。2年間の研究開発の末世に送り出した自信作でした。
これがなんと毎月100万円の赤字、あっという間に累積赤字が1000万円を超え、自信が不安に希望が絶望に変わっていくのを肌で感じるような有り様、まさに自社ブランドの成功の難しさを実感させられた大怪我経験となってしまったのです。

でも私は諦めませんでした。そんな痛手にもめげず、今度は新鮮な生で食べられる豚肉をメインとした、その名も“もつ焼どんたく”をオープンさせたのです。しかしこれも月商200万円そこそこで、どんなにブラッシュアップしてもどんなに改善してもどうしても200万円の壁を越えられず頭打ち状態。そんな暗中模索の中、天の恵みかオーナー仲間の紹介で中村悌二氏と出会うことができたのです。
中村氏は業界では有名なレストランプロデューサー、繁盛店請負人という異名を持つようなまさに天才プロデューサー、ただしちょっと気難しい、これが中村氏の風評でした。
この中村氏の性格と私の性格がなぜかフィットして、迷わず“もつ焼どんたく”のコンサルタントをお願いしたところ快く引き受けてくれたのです。その理由が面白く、なんと“酒井さんツイていそうだから”だそうです。
そしてそれから本格的挑戦が始まっていくとは、その時は知る由もありませんでした。

店名も“どんたく”から“大金星”に改名、商品もすべて手作り感溢れる本物志向。以前冷凍だった肉類も全て冷蔵にし、品数も増やし、とにかく中村氏の完璧さは全てに及び妥協は絶対に許さない、これが繁盛店請負人というすごさだということを、心の底までたたき込まされるようなそんな徹底教育でした。ついていくのが精一杯で、従業員は毎日睡眠時間4~5時間のハードスケジュール。そんな試練を皆必死で耐えてくれ、平成21年1月、念願の大金星1号店が田町の地に誕生したわけであります。
これが一躍田町の人気店となり大ヒット、雑誌にも取り上げられるほどの繁盛店に成長していったわけです。
そしてその年の8月、2号店として神保町にオープン。
1階10坪、2階10坪という小さな店にも関わらず、オープン半年後にはお客様が入りきれないほどの繁盛店に成長していきました。

その後順調に出店していき、田町店オープンから5年目にセントラルキッチンを立ち上げ、関東ならどこでもその日作った商品をその日の内に届けられる新鮮手作り配送を可能にし、他社との完全な差別化に成功したのです。
そしてやる気のある人には大金星を2~3年経験させ独立を支援するのれん分け制度を開始し、今現在5人の独立オーナーを育ててきました。
2018年には大金星と違い、カップル、家族をターゲットにしたイタリア料理店“ワイン食堂DAIKINBOSHI”をオープンさせ自社の更なる成長を決断しました。
現在私も61歳になりました。必死についてきてくれた社員には心から感謝の気持ちでいっぱいです。

自社の基本理念を座標軸におき、これからも会社の発展と社員の成長に貢献していきたいと思っています。

努力 感謝 謙虚

2019年 4月代表取締役 酒井敏